本の扉に載っているターレガの写真
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1852年11月21日 | 0 | フランシスコ・デ・アシス・ターレガ・エイクセア、東スペイン・レバンテにて生まれる |
|
ターレガの子守として雇われた少女がむずかる赤ん坊に苛だちミリャスの掘り割りに放り込む。現場を目撃した人に運良く助けられるが、幾日も生死をさまよう。命は助かるが、生涯、ターレガは眼病に悩まされることになる。 |
||
| 1854年 | 2 | ターレガ家の次男ホアン・ラモン誕生。 |
| 1858年 | 6 | ターレガ家の長女コンチャ誕生。 |
| 1858 | カステリョンに移住 | |
| 1858〜1867年 | 6〜15 | ターレガ家にアントニア、ローサ、センテータ(いずれも女子)、末っ子ビセンテ(男)誕生 |
| 1858〜 |
6〜 |
ターレガの父は少年ターレガにエウヘニオ・ルイスにソールフェージュ、ピアノのレッスンを受けさせる。 |
| さらにギターに関してカステリョンで定評のあったバシリオ・ヒネールの教えを受ける | ||
| 1862年 | 9 |
この頃、少年ターレガはすでに街の仲間にギターを弾くようにねだられると、「マリーナの盲人」から聞き覚えた、もっと難しい曲などを弾いたりした。 |
| 1862年 | 9 |
当時スペインで最も名高いフリリアン・アルカスの演奏会がカステリョンで行われ、深い感銘を受ける |
| 1862年 | 9 | ターレガの父がアルカスに自分の子供のギターを聴いてもらよう頼み、ターレガはアルカスの前でギターを弾く。 するとアルカスはターレガの資質を認めて驚き、彼の勉強を導いてあげようと言う。 父はさっそく資金をまとめアルカスの住むバルセロナに彼を送ることにする。 |
| 1862年 | 9 |
しかし、彼はすぐに姿を消し、レストランなどでギターを弾き、その報酬でお金を稼ぎ放浪生活をする |
| 1862年 | 9 | ターレガの父が1週間も心配して探したあと、やっと息子を見つけ連れ帰る |
| ターレガの父が連れ帰る間、いっそうターレガのすぐれた楽才をしり、彼の中で希望と幻影を募らせる |
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1865年 | 13 |
また家を抜け出しギターを持ってバレンシアへ行く。 |
|
経済的困難と父の飽くことのない呼びかけに、やがてカステリョンの家に戻る |
||
| 実家に戻ると、家は家計的に逼迫。そこで、ブリアーナで町のカジノのピアニストの職を得る | ||
|
やがてサ・ホキアン街に移り住みピアニストの職をしながらギターの練習に明け暮れる。 |
||
| ピアニストでありギタリストであるターレガの名声はブリアーナじゅうに広まる。 彼の周りにはたちまち友人、賛美者、弟子の1サークル「ギターの友(アミーゴス・デ・ギターラ)」ができあがる。 |
||
| サークルの一人である裕福なカネサ家の庇護を受けるようになる。 | ||
| 1869年 | 17 | アルカスが素晴らしい音量と情熱的な音色をそなえたギターを使った、と言うことが話題になる。サークルの全員が、ターレガもこの同じ制作者のギターを持つべきという意見を持つ。カネサはそれを実行に移す役目を引き受ける |
| その数日後、ターレガと庇護者はセビーリアのトーレスの店を訪ねる | ||
| トーレスはターレガがすぐに特別な才能をもったギタリストであると気づき、店の奥から名工の全ての愛着を込めて作り上げた美しい楽器を取り出し、渡す。(そのギターをターレガは生涯最後の日まで使い続ける) | ||
| 1870年 | 18 | ターレガの母亡くなる |
| 1871年 | 19 | クーデター勃発。ブリム総督の暗殺はスペイン社会に大きな衝撃となる。ターレガは兵役に就くことになる。 |
| ただし3年間の義務兵役は、幸運にも大佐の世話係に選ばれ、きつい兵役義務から逃れることができ、十分に音楽活動が可能だったと思われる。 | ||
| この軍隊生活の中でフォルテアと知り合う。2人の間には生涯絶えることの友情が生まれる。 |
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1874年 | 22 | マドリード音楽院に入学 |
| ソルフェージュの課程でも一等賞の優秀な成績で終える | ||
| ターレガのギターの賛美の声が校長の耳にも入り、音楽院で教授連だけを聴集にした演奏会が行うように求められる。彼は喜んで求めに応じ、大ピアニストが通例としていた、即興演奏も行い、ターレガの素晴らしい才能が発揮された。 | ||
|
この成功の噂は広がり、他の著名な芸術家たちと慈善演奏会加わって欲しいと求められる。 その演奏会でもターレガのギターはセンセーションを巻き起こす。 |
||
| この時得た賞賛がピアノに押されていたギターの芸術的地位を再び勝ち取るべく、確実な第一歩であるという満足を得る。(彼にとってピアノは音楽修行に欠かせないものであったが、彼の感受性と気質にもっともふさわしい表現はの道具はギターであることを確信)。 | ||
| これ以降、ターレガの生活はギター1本に絞られた。 | ||
| マドリードに定住して演奏活動を行い、高名な知識人とも交流を持つ。 | ||
| 1879年 | 27 |
サルドーニは『スペイン音楽家細録』で「スペインで最も信望あるギタリストに一人」と記載 |
| 1879年 | 27 |
アリカンテで演奏会。アルカスと再会。彼の弟子であるソリアと会う。 |
| 1880年 | 28 | 詩人パルテノの自宅で演奏会が催され賞賛される |
| 古典派ロマン派のピアノ曲を編曲したものも演奏プログラムで弾かれるようになる。 | ||
| ソリアは急病になり自分のコンサートの代役をターレガに依頼。その演奏会は成功をおさめる。客として来ていたマリア・ホセファ・リソと知り合う。後に弟子となり、彼女の人柄に惹かれる。 | ||
| 1881年 | 29 | マリア・ホセファ・リソに気持ちを告白する。(が、81年3月にいったん別れる) |
| パリ在住の画家アルコスがターレガをパリに招く。 まずリヨンの幾つかの上級サロンやオペラ劇場で演奏会を開き大成功をおさめ、パリに向かう。 |
||
| パリでのコンサートも成功をおさめ、パリの有名日刊紙に賞賛が書かれる | ||
| ビクトルユゴーの主催する祭典にも出演し、ユゴーから感激したという手紙を受け取る | ||
| 1881年12月 |
ターレガとマリア・ホセファ・リソ結婚。 |
|
| 妻を連れてブリアーナに赴く。 | ||
| 1882年 | 30 | 長女誕生。 |
| 1883年 | 31 | 病気で長女亡くなる |
| 1885年 | 33 | 娘、マリア・ロサリア誕生 |
| 1887年 | 35 | 娘、コンチータ誕生 |
| 兄のいるバルセロナに転居 | ||
| ターレガは当時、グラナドス、アルベニス、マラッツ、ビディエーリャ、ゴウラウ、ミリュート、ロドレーダ、カサルスと交友。バルセロナのあらゆる音楽家と知己になっていた。またバルセロナに住むほとんどの画家、彫刻家も彼の友人だった。フェレール、ボネート、ガルシーア、ボスク、フェラン、マス、フェデリコ・カーノらのギタリストも同様。(カーノはターレガについて和声楽を習っていた。) |
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1885年 | 33 | コレラがスペインに流行り、ターレガの父とカネサ、大切な人を2人亡くす。 |
| 1886年 | 34 | ペルピニャン市の特別サロンで幾つかの演奏会を開く。 |
| 1888年 | 36 | 一家をともないバレンシアへ赴き、多数の演奏を行う。 |
| バレンシア滞在期間、音楽や芸術家、愛好家との盛んな交友が行われ、熱心な弟子達が集まる。 | ||
| 1891年 | 39 | マジョルカでコンサートをした後バルセロナに再び戻る |
| 戻ると、三日前に娘コンチータが病で亡くなっており、深い悲しみを受ける。 | ||
| 1892年 | 40 |
バルセロナに「ギタリストたちの家」と呼ばれたお店があり、出入りしていたギタリストはマヒン・アレグレ、ドミンゴ・ボネート、ホセ・フェレール、ミゲル・マス、ホアン・フェラン、セペリーノ・ガルシア・フォルテラなど。 |
|
この店で、ターレガと少年ミゲル・リョベートは出会う。ターレガはすぐにリョベートの非凡な才能を見抜き、指導を受けたければ、いつでも自分の家に来るように言う。 |
||
| 1894年2月 | 42 | カンヌ、ニース、モンテカルロに演奏旅行に出かける |
|
パリに移り、元スペイン女王イザベル2世の招きを受け、数回に渡り演奏。 |
||
| (この完成期の間、詩人アペレス・メストレス、名ヴァイオリニスト・マネンなどの絶賛を受ける) |
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1896年 | 44 | ターレガはバレンシアを訪れ、晩餐会にギターを披露。この会に出席していた未亡人ドニャ・コンチャは彼のギターに惹かれる |
|
ターレガがバルセロナに戻るとドニャ・コンチャもその後を追って、バルセロナに移り住む。彼女の住んでいた裕福な夫人が住む地区サン・ヘルバシオはターレガ・コンサートホールのごとく愛好家が通い詰める場所となる |
||
|
ターレガはアンダルシアへ演奏旅行。その際、アルハンブラを訪れ、その印象を夜、トレモロの曲としてスケッチする。 |
||
|
ドニャ・コンチャはサン・ヘルバシオにタレーガ家族を移り住ませる |
||
| そこに住んだ期間に『夢』『ト長調のマズルカ』など作曲され、また数多くの編曲が手がけられる。 | ||
| 1897年 | 45 | パリで、演奏活動 |
| 1899年 | 47 |
ドニャ・コンチャと仲違いとなり、バルセロナの旧居に戻る。 |
| この頃ターレガは病に陥り、パリでの活動以降、1902年6月まで聴衆の前に姿を現さなくなる | ||
| 1900年 | 48 | アルジェリアに行き、サン=サーンスと出会う。(この時に聴いたアラブ風の打楽器の印象が『モーア風舞曲』となる) |
| この頃からターレガの右手奏法が爪を使わない奏法に変わっていく | ||
| 1903年 | 51 |
ターレガはイタリアの各都市で演奏活動。 |
| 1904年 | 52 |
プジョールが初めてターレガと出会い、初レッスンを受ける。 |
|
アリカンテ、パル・デ・ウクソ、バレンシア音楽院等で演奏を行う。 |
||
| 1905年 | 53 | 再びイタリアで演奏活動。絶賛を受ける。(健康状態はやや悪く、重い病の手がだんだん忍び寄っていた) |
| 年 | 歳 |
出来事 |
| 1906年1月 | 54 |
突然、激しい発作とひきつけを起こし、倒れ、ターレガは右半身不随になる。(血栓病) |
| 寝たきりになるが、再びギターを弾くために動かない右手を少しずつ動かす努力をする。 | ||
| その結果、少しずつ感覚を取り戻し、ようやく動けるようになる。 | ||
| ターレガの病気の為、家計がさらに苦しくなるので、バルセロナでの生涯最後の演奏会を行う | ||
| 1907年 | 55 | 病気からほぼ復活し、アルコイで演奏会。成功する。 |
| 1908年 | 56 | 生まれ故郷への郷愁を覚え、また健康の為にカスティリョンに旅立つ。 |
| 1909年 | 57 | バレンシアで内輪の演奏会を行う。 |
| 1909年10月 | アリカンテで彼の生涯最後の演奏会が行われる。 | |
| ピカーニャに滞在し、そこでの司祭館で聞かれた聖歌や祈りが『オレムス』となる。 | ||
| 1909年12月3日 | 身体の不快を覚えたターレガはバルセロナに戻る。 | |
| 1909年12月13日 | ターレガの体調が急激に悪くなり、やがて昏睡状態に。 | |
| 1909年12月25日 | ターレガ永眠。 | |
| 1915年11月9日 | カスティリョン市の雑誌に「ターレガの遺骸を故郷に戻して欲しい」と掲載される | |
| 1915年12月18日 | ターレガの遺族の意志により、遺体はバルセロナの墓地から掘り起こされ、搬送される。 |
出典:『ターレガの生涯』(現代ギター社) E・プジョール著 浜田滋郎訳
Copyright(C) All rights reserved. URL:http://kirokucho.com/